「心に残るフィクションを書く」コツは〈遠触〉にあり!

こんにちは、もりのひつじかいです。

 

フィクションを創作しているひとなら
多かれ少なかれ、物語の書き方に
何かコツみたいなものがあったら
こっそり勉強してみたいな
なんて考えているのではないでしょうか。

そういうひつじかいも
常にそう思っています。

 

そんなある日
デイビッド・リンチ監督の
映画作品『インランド・エンパイア』を
中心に論じた評論集『遠い触覚』
(保坂和志著/河出書房新社/2015)

遠い触覚


という本を読んでいましたら
フィクション(物語)創作時の
作者の立ち位置について
思わずはっとするようなことが
書かれていました。

 

ちなみに
デイビッド・リンチというひとは
初期のころには『エレファント・マン』
なんていう映画を撮っていましたが
日本でも一時話題となったテレビドラマ
『ツイン・ピークス』を作った辺りから
作風が難解になったと言われている
監督です。

その極めつけが
『インランド・エンパイア』です。

 

つまり『遠い触覚』という本は
この超難解と評される
映画をめぐる論考をまとめたもの
であるわけですが
著者が文中で多様するワード(言葉)が
フィクションを創作するもの全般に
そのまま当てはまるような気がして
立ち止まってみたというわけです。

 

それが
〈遠触〉(えんしょく)という言葉です。

 

「遠い触覚」を短縮した著者の造語で
ものを創作する作家(創作者)が有する
ある種の感覚を表現しています。

 

 そう!
 確かにそうだよ
 創作(創造)に関わるからには
 物語を上手に書き上げるコツ
 なんていう小手先のことよりも
 もっと大切なものがあったよね!

 

たとえばひつじかいであれば
気の利いた絵本のストーリー、
フィクションを書こうとしながら
ついつい忘れてしまう大切なもの。

 

すごく大切なものだから
あなたとも
それを共有しておきたいと思い
こうしてキーボードを叩いています。

 

これは、絵本ばかりではなく
フィクション全般、フィクションと
積極的に関わろうとしている作家全般に
敷衍(ふえん)されることかもしれません。

 

ではその〈遠触〉とは何か?

さて、その重要なキーワード〈遠触〉とは
いったいどんな概念なのでしょうか?

 

『遠い触覚』の中から
該当する部分を抜き出してみましょう。

 

作家には
遠いずっと先にあるイメージがあり、
それをいまここで仮に〈遠触〉と呼ぶ
としよう、その〈遠触〉に向かって
自作を開こうとする。

すべての作家には本来〈遠触〉があり、
〈遠触〉がなければ作品など
作り出せるわけがないのだが、
多くの人はすぐに〈遠触〉を忘れ、
自分の作るものを作品として完成度の
高いものにして当座の評価を得ることで
満足するようになってしまう。

〈遠触〉とはその人固有の
世界の予感のようなものであり、
ユングの集合的無意識のように
共通したものではない。
フロイトの無意識によって
分析しうるものでもない。

『遠い触覚』107ページから抜粋。

 

要約すれば〈遠触〉とは
遠いずっと先にあるイメージのことで
作家がものを創作(創造)する際の
パーソナルな世界の予感のようなもの
ということになるでしょうか。

 

 

そう言われてもなんだか抽象的過ぎて
すぐにはピンとこないかもしれませんね。

 

具体的な説明は前後のパラグラフに
書かれているのですが
それを整理するとこうなります。

 

 世間の人々は

「作者は何を考えてこれを書いたのか?」
「意図は何か?」というような
 目先のことを直ぐに問題視したがるが
 作家は意図なんていう小さなものに
 生涯をかけたりしてはいない。

 意図ととは〈遠触〉を表現するための
〈中継点〉に過ぎないのだ。

 

というのです。

 

いかがでしょうか?
少しは理解が深まりましたか?
まだ、だめですか?

 

ひつじかいもこの本を読むまで
創作(創造)は「意図」が最重要
と考えていましたから
〈中継点〉に過ぎないなんて
簡単に切り捨てられてしまうと
やはりショックを隠せません。

しかし
さらに違うページには

「作家は自分の作品の全てを
 理解しているわけではない」

と書いてあり
少しだけほっとしました。

 

〈遠触〉とは〈触媒〉のようなもの?

ひつじかい流の解釈をもう少し加えると-

 

〈遠触〉を無理やりに表現したものは
もはや
〈遠触〉で予感されていたものではなく
別のものに変質してしまった「何か」
ということになるでしょうか。

 

〈遠触〉は〈遠触〉
としか呼べないものだから
イメージすることしかできませんし
予感というような漠然とした表現でしか
言い表せないものだと思います。

 

〈遠触〉を〈遠触〉のまま遠くに置き
世界を予感しながら創作を続け
フィクションの内側に
自らも完全に浸かりこむそのとき

「フィクションとして自足している
 ※約束事でないフィクションが
 フィクションとして立ち上がる瞬間」

というのがやって来るのだと
保坂氏は言います。

 

※約束事のフィクションとしては
 聖母マリアの
「処女懐胎」を例として挙げています。

 

つまり〈遠触〉とは
約束事ではない
新たなフィクションという
「窯変」(へんよう)をもたらすための
〈触媒〉のようなものなのかも
しれませんね。

 

たとえば、物語の書き方のこつを
得たいというのであれば
〈遠触〉を理解し実践することで
小手先のテクニックを遥かに超えた
創作(創造)の根幹に迫ることが
可能になるはずです。

 

それにはまず
「作家は全てを理解している」
という幻想を
きっぱり捨て去ることではないでしょうか。

 

ひつじかいにとっての〈遠触〉とは?

これはなかなか難しい設問ですね。

ひとつはっきりしていることは
『もりのしょうぼうだん』を書き終え
それが間もなく絵本として刊行される
という状況下にあっても
決して満足はしていないということです。

まだまだ書きたいことがいくつもあり
実際に何編か書き溜めてもいます。

けれどもいつも
思ったようには表現ができません。

シンデレラ

それは、ひょっとしたら
先に思ってしまうから
イメージしてしまうから
うまく書けないのかもしれません。

(つまり
 フィクションが立ち上がらない!
 ということです。)

 

なぜなら
先に思うこと、イメージすることは
〈遠触〉を言葉に置き換えようとする
強引な運動に変換されてしまうからです。

 

たぶんひつじかいには
フィクションの本質が
完全には理解できていないのでしょう。

「物語の書き方のこつって何?」

と無邪気に問いかける次元から
そんなに遠くまで来てはいない
ということなのかもしれません。

 

書きながら思考し
書きながらフィクションと同化し得た
そのとき

「フィクションとして自足している
 約束事でないフィクションが
 フィクションとして立ち上がる瞬間」に

立ち会うことができるのかもしれません。

 

 

さて
ではこのセンスティブな〈遠触〉を
自在に使いこなせるようになるには
どうすればいいのでしょうか?

 

正直に言って
ひつじかいにも妙案はありません。
それでも当面の対応策として
今後は次の3つの点に留意してみたいと
考えています。

 

その3つとは-

①フィクションの視点を遠くに定める

②「お約束事」には近寄らない

③頭(左脳)でストーリーをまとめない

 

このほかにも
心がけなければならないことは
沢山あるのだと思いますが
とりあえずこの3つを
直ちに実践してみようと思います。

 

ところで、そういうあなたは
フィクションが立ち上がる瞬間に
立ち会われたことがありますか?

 

もし「ない」というご返事でしたら
この〈遠触〉エクササイズ
試してみてくださいね。

 

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