安房直子さんの童話『きつねの窓』を読んだ率直な感想

狐を象ったクッキー 童話・ファンタジーほか
きつねの窓が・・

こんにちは、もりのひつじかいです。

今日の「絵本おすすめの1冊」は
じつは絵本ではありません。
【絵童話】というものを
取りあげてみたいと思います。

このコーナーでは初めて
「童話」を選んだことになります。


もちろん絵本版もあるのですが
今回はなぜか、その【絵童話】
なるものを読んでみたかったのです。


【絵童話】というのは
読んで字のごとく
絵がふんだんにちりばめられた
童話のことですね。

ひつじかいがこだわった
【絵童話】のテキストは、こちらです。

絵童話『きつねの窓』の表紙

本のアイコン『きつねの窓』
安房直子・作/あおきひろえ・絵
宮川健郎・編/岩崎書店/2016

この童話は
1975年に初版が発行されていますから
本日用いたテキストは、さしずめ
童話版の最新版?ということにでも
なるのでしょうか。

あらすじは・・・

ほかのサイトに譲ることといたしまして
ここではもっぱら読後感想に焦点を絞り
ひつじかいが感じた率直な印象を
ランダムに書き並べてみたいと思います。

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〈ぼく〉の職業は猟師?それとも週末だけのハンター?

*これは一人称で書かれた物語。

*主人公である〈ぼく〉の職業は
 結局最後まで明かされない。

*鉄砲を持っていることや
 「ダンと一発やってしまえば・・」
 などのモノローグから、主人公は
 「どうやら猟師らしい」と推測できる。

童話『きつねの窓』を通読し
そこから全体を振り返ってみますと
この物語の時代設定は
終戦からそれほど経ってはいない
1950年代半ば(昭和20年代終わり)
ころではないかと推測されます。

作者
安房直子さんの年譜を調べてみましたら
彼女は1943年(昭和18年)の生まれ
ですから、戦中・戦後を体験した世代
だったことがわかります。

この童話が出版されてから、すでに
40年以上もの時が経っているはずなのに
〈ぼく〉は結構若々しく
童話自体にも古風な感じがありません。
1990年代に小学校の教科書に掲載された
という理由も、案外
こんなところにあるのかもしれません。

確かに
猟師という職業を全面に押し出したら
『ごん狐』と同じような時代かと
錯覚してしまったかもしれません。
あるいは『なめとこ山のくま』などを
連想していたことでしょう。

職業をはっきりと告げずにあとは読者に
想像させる、というレトリックを使った
ことで、童話の自由度が広がったように
感じられました。
それが、きつねの窓と鉄砲の交換という
印象的な場面へとつながったのでしょう。

猟師ということで通していたならば
生活の糧を得るための大事な商売道具を
そうやすやすと手放すことなど
できなかったでしょうから。

ただ微かな違和感が残るのは
現代風の猟師である〈ぼく〉と
〈白ぎつねの子〉が交流する場面で

こっちを見ている白いきつね

〈ぼく〉はきつねの子が語る身の上話に
相応の反応を示していない点です。
(我が身に引きつけて考えていません。)

その一点が妙にひっかかり
きつねの棲む世界と〈ぼく〉が住む世界
とが、少し乖離しているような
そんな印象を受けてしまいます。

〈白ぎつねの子〉の存在に比べ
〈ぼく〉が飄々とし過ぎているのです。
鉄砲の重み(価値)を軽くした分
〈ぼく〉の重みも軽くなってしまった
ということなのでしょうか?


これは
ひつじかいの率直な読後感想です。

「きつねの窓」に映った思い出とは

*「きつねの窓」に映ったのは
    ひとりの少女の面影。

*その面影が〈ぼく〉を動かした。

*彼女はすでにこの世にはいないひと
   なのかもしれない。

桔梗

童話『きつねの窓』の最重要シーンは
桔梗の汁で染めてこしらえてもらった
「きつねの窓」の対価として
〈ぼく〉が鉄砲を渡す場面ですね。


「猟師」と思しき〈ぼく〉にとって
鉄砲は大事な道具のはずです。
「親ぎつねをしとめたい」
と言っているように、鉄砲で
いくばくかの糧を得ている様子などからも
本当はおいそれとは手放すことなど
できないものなのです。


ところが〈ぼく〉は、たった今手に入れた
「きつねの窓」と鉄砲を比べ
「すこしもおしくなくなった」のです。


それはなぜでしょうか?


童話をじっくり読んでいくと
その答えは少し先に書いてありました。

それは-


〈ぼく〉の思い出(物)は全部焼けて
手元には何ひとつ残っていないからです。
むかし大好きだった
目の下にほくろがある少女にも
可愛い妹にも
もう決して会うことができないからです。
〈白ぎつねの子〉がくれた「窓」は
そんな失われてしまった思い出を
リアルに映し出してくれる
なんとも不思議な「窓」だったのです。

全部焼けてしまって
何もかも失った〈ぼく〉は、おそらく
自分の拠り所、アイデンティティさえも
見失っていたのかもしれません。
「きつねの窓」は
そんな〈ぼく〉が自我を取り戻すための
手がかりだったのではないでしょうか。
鉄砲よりも大事だと考えた理由が
ここにあるのだと思います。

思い出があれば生きていけますか?

〈白ぎつねの子〉は
「窓」に映った母ぎつねの姿を見て
「もうさびしくなくなった」と言います。

空を見つめる白いきつね

思い出には、そう言い切らせるだけの
強い力があるということですね。


あなただったら、なんて言いますか?
思い出があれば、さびしくないですか?
思い出だけで、生きていけますか?
そうして、それを鉄砲と交換できますか?

ごめんなさい、自分のことを棚にあげて
先にあなたに尋ねてしまいました・・・。

率直に言いましょう。
ひつじかいは無理です!
思い出だけでは、寂しさは拭えません!

作者の安房直子さんには
笑われてしまうかもしれませんが
「きつねの窓」に映し出される動画?は
かえってひつじかいの心を
ざわつかせます。
亡くなってしまったひとたちとの距離
=ディスタンスを
より一層思い知らされてしまいます。


そういう意味では
〈白ぎつねの子〉に会うまで
平気で「ダン!と一発やっていた」
〈ぼく〉の方が
よっぽど素直なのかもしれません。


しかし、結局〈ぼく〉は
対価を払って手に入れた「きつねの窓」を
うっかり洗い流してしまうのでした。

〈ぼく〉は二度と
「きつねの窓」を開くことができません。
思い出に頼ることができません。

でもこれでよかったのだと
ひつじかいは思います。
作者の安房直子さんも
きっと同じ思いだったでしょう。

こうして「きつねの窓」は
読者の前で閉じられたまま
今日にいたっているのです。
だからいつまでも
この窓のことが気になるのです。
目の下にほくろのある少女のことが
気になるのです。

童話『きつねの窓』が
気になるのです。

安房直子さんの童話
『きつねの窓』を読んだ
ひつじかいの感想は、以上です。

 

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