暦もお祓いも知らない息子が「木を切ってはいけない」と言った日

切り株の上のシマリス 絵本発想のヒント
木を切ってはいけないよ

こんにちは、もりのひつじかいです。

こんなことが
絵本作りの参考になるかどうか
わかりませんが
とにかくお話しをしてみましょう。

あなたは
この現代社会に
木を切ってはいけない日があるってこと
ご存じですか?

いけないといっても
「絵本」のストーリー上のことではなくて
昔から伝わる「暦」のうえでのお話し。

しかし、この「暦」
今でも林業に携わる人々の間では
しっかりと伝承されているんですよ。


もっとも彼らは「立木伐採カレンダー」と
呼んではいますが・・・。

関連資料にリンクを張っておきますので
関心のあるひとは開いてみてください。

静岡県森林組合連合会が作っている
「立木伐採カレンダー」はこちらです。


今日は
こんな話題から入り
切らずに残すことになった
わが家の五葉松について
語ってみたいと思います。

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大犯土(おおつち)小犯土(こつち)

「木を切ってはいけない日」というのは
暦注(れきちゅう)といわれる
暦のうえでの
注意喚起事項のひとつであるわけですが
大犯土、小犯土などとも呼ばれ
月ごとにそれぞれ連続した7日間
と決められています。

この期間は伐採をはじめ
植樹、種まき、穴掘りなどの土木工事や
土に関連する神事なども原則ご法度
ということになります。

しかし

これをそのまま鵜呑みにしていましたら
それこそ月のうちの半分近くは
土仕事ができなくなってしまいますので
農家などは「知ってても知らぬふり」
をきめこんでいるのでしょうね。

ひつじかいも20年ほど前までは
暦注などにあまり関心はなく
いささかのためらいも感じることなく
立木を伐採しておりました。

例えばそれが庭の片隅に自生した
望外の木であったとしたら
なおのこと・・・。

自然に生えたどんぐり


ただ
知り合いの神職が申すまでもなく
山川草木(さんせんそうもく)
自然の随所に
神々が偏在しておられるわけですから
当然のことながら
立木についてもしかりですね。

ましてやそれが古木や巨木ともなれば
言うに及ばず。

やむを得ず切らなければならないときには
暦に従い日を選び厳粛に祓う必要があると
確かにそういう話しは
どこかで耳にしたことがありました。

ところでひつじかいは
あることがきっかけとなり
むやみに「木を切ること」を
自粛することにしたのでしたが

それは

大犯土、小犯土や山川草木云々に
感じ入ったからではありませんでした。

木を切ることと切らないこと

あれは
息子が5つのころのことでした。

鳥が運んだものやら
はたまた風のいたずらか
庭の片隅に五葉松が自生したのです。

片隅といいましても
近くにはサルスベリの木もあり
何かと不都合な場所にありますので
抜くか抜かぬか思案しているうちに
あっというまに数年が経過していました。

育つままに任せていた五葉松も
そこそこの樹高に達し
名にし負う五葉という松葉の特徴を
兆しはじめていました。

しかし
まことに残念なことに
どうもこの松
姿かたちがわるいのです。

息子が守った五葉松

我が家の五葉松

腐っても鯛
それでもどこかに
見るべきものがあるのではと
様々な角度から眺めてはみるのですが

どこからどう見ても

不格好で不細工で納まりがわるく
五葉松としては明らかに「不適格」
という烙印を押されてしまいそうでした。

そこでひつじかいは
軽い調子で
「庭の松を切るけど、いいよね」と
誰にともなく言いました。
するとそれを聞きつけた息子が

「だめだよ!切っちゃいけない!」

と叫びました。
「え、どうして?」
「どうしても」

暦注も神職のお祓いも知らない
5歳の息子は
その木を切ってはいけない理由について
うまく説明することはできませんでした。
けれども
その決然とした態度に
ひつじかいは気圧されたのでした。

格好がわるい木だから切ってしまおう
と考えた心のうちを
すっかり見透かされてしまったような
そんな後ろめたい気持ちも
多少重なってはいましたが・・・。

結局最後まで
息子の真意はわかりませんでしたが
この木を切ってはいけないのだ
という信念だけは伝わってきました。

この木に限らず木というものは
おしなべて
切ってはならないものなのかもしれないと
そのときふと思ったりもしました。

息子は逝き松の木は残った

当時5つだった息子が
決然と守り抜いた五葉松は
今でもわが家の庭の片隅に立っています。

どこからどう見ても線が細く貧相で
そのうえ
庭木の剪定などというこをよく知らない
全くの素人のひつじかいが
見よう見まねで
細枝を落としてしまったものですから
初心者がバリカンで刈り上げた
ごましお頭のごとき様相を呈しています。

樹齢やく30年。
樹高やく10米。
樹径やく100粍。

この木を見上げるたびにひつじかいは
「それにしても不格好だなあ」
と思います。

この木を見上げるたびにひつじかいは
木を切ってはいけないと叫んだ
あの日の息子の
決然とした態度を思い浮かべます。

そうして
「木を切ること」と
「木を切らないこと」との間には
何があるのかということについて
改めて考え始めるのです。

五葉松の枝先


息子は2年前に他界しました。
五葉松は残りました。

この不格好な木は
息子の木です。
どこにでもいる若者のように
普通に生きることができなかった
息子の木です。

しかしこの木にだって
この木なりに
生きる意味があるはずです。

先ごろ亡くなった劇作家の別役実さんが
『一軒の家・一本の木・一人の息子』
というお芝居を書いています。

その中で作家は登場人物に
次のようなことを語らせています。

 人は誰でも
 一軒の家を建て
 一本の木を植え
 一人の息子をもてるよう

(もちろんそれ以上でも構いませんし
 娘なら更にいいかもしれません。)

 人生を頑張らなくてはいけない。

一本の木は
いつか将来
自分たち夫婦が亡くなった後に
息子が私たちのことを思い出す
そんな縁(よすが)となるよう
植えるのだというのです。

自分たちがただ黙々と生きて
子育てをし
死んでいったのだということを
思い出してもらう
その日のために
どうしても一本の木を
植えておかなければならない
というのです。

順番は逆になってしまいましたが
息子が守り抜いた五葉松は
ひつじかい夫婦の「一本の木」
なのかもしれません。
切らなかったからこそ残った
「一本の木」
なのかもしれません。

庭の片隅に立つ五葉松を見るたびに
ひつじかいは
「木を切っちゃいけない」といった
息子の真意について考えます。

何度も何度も考えます。
何度も何度も考えますが
答えは見つかりません。


答えは最期まで
見つからないかもしれません。


「木を切っちゃいけない」
ということは
そういうことなのかもしれません。
日や暦
大犯土、小犯土を超えた
見えない規範のようなもの
なのかもしれません。

ところであなたには
「一本の木」なるものが
おありでしょうか?

先ほどのお芝居ではありませんが
そんな木が一本あれば
少しだけ人生がゆたかになれるような
そんな気がしています。


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