絵本の中の家ではなくてホントの〈空き家〉の物語

空き家になった小さな家 絵本なんでもファイル
そして空き家に・・

こんにちは、もりのひつじかいです。

「家」をテーマにした絵本といえば
バージニア・リー・バートンという作家の
『ちいさいおうち』(岩波書店)を
思い出します。

あと

そうですね
いろいろあるとは思いますが
最近関係している出版社で目にしたのが
『アンちゃんとおうち』
かくたにたかし作(未来パブリッシング)
という可愛いらしい絵本です。


いずれの絵本も
「家」が主人公という設定ですね。

ただし、今回は
家は家でも絵本の中の家ではなく
とっても気になる〈空き家〉について
お話しをさせていただきます。

あなたのまわりにも
そんな気になる〈空き家〉
というのがあるのではないでしょうか?

なぜ
その家は空き家になってしまったのか?

いつから
その家は空き家になっているのか?

どうして
その空き家がこんなに気になるのか?

この絵本の中のような家も空き家なのだ

そういうあなたが住んでいる家も
もちろんひつじかいの家だって
「いつかは空き家になるかも」
しれません。


目を背けようとしても
かえってまじまじと見つめてしまう
そんな空き家について
今日はあれこれ
想いをめぐらしてみましょう。

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〈空き家〉とは時間が止まってしまった「家」のこと

ひつじかいの家のまわりには
たくさんの空き家があります。

身寄りのない老夫婦が暮らしていた家。

おじいさんが亡くなり
おばあさんが亡くなり
そして空き家になりました。

道に面した玄関の脇には
おばあさんが使っていた手押し車が
今もそのまま残されています。

その横にころがる
サビの浮き出た粉ミルクの缶。
お花の水やりにでも
使っていたものでしょうか?

ひつじかいは
その家のおじいさんともおばあさんとも
面識がありました。
だからその空き家の前を通るたびに
二人のことを思い出します。
二人のことを思い出しながら
あらためてその家をながめます。

垣根のアオキが伸びているなあ。
家の前の倉庫に小さな穴が開いているぞ。
いくつもいくつも開いているぞ。
どうして穴が開いたのかなあ。

そういえばおばあさんは
おばあさんになってからもしばらく
器用に自転車に乗っていたっけなあ・・。

そんなことを考えていると
その小さな家の前は
すぐに通り越してしまいます。

するとひつじかいは
とたんに空き家のことは忘れてしまって
なかなか完成しない絵本のストーリーを
ああでもないこうでもないと
粘土のようにくねくねと
何度もこねくり回すのでした。

 

小学校の正門をまっすぐ下った
田んぼの中に
その空き家は建っています。

かつてその家は
小さな文房具店を営んでいました。

小学生のひつじかいは
その店で
ほとんどの文房具を買い揃えました。

間口一間の本当にかわいい店。

窓をガラリと開いて
背伸びをして買い物をするのです。
背の低い子どもたちのために
窓の下には踏み台が用意されていました。

お店の中をのぞくと-

色とりどりの消しゴム
大学ノート
黄色や水色の大きなチューブに入った
のり(ふのり)
色紙や千代紙
ろう石(コンクリートに絵を描きます。)
エンピツの芯と木材の臭いが
かすかに漂っています。

色鉛筆のパラダイス

目の前に広がるその空間は
まるでパラダイスのように見えました。

でも一番のお目当ては
一回10円で引ける「くじ!」でしたね。
今から考えれば
ずいぶんつまらない小物が
当たったんだろうと思います。

その文房具店も空き家です。

おばあさんは早く亡くなり
認知症がすすんだおじいさんは
千葉の息子さんのところに
引き取られていったということです。

 

かつては文房具店だった
その小さな空き家を見るたびに
くじを引いたときのささやかな興奮が
あざやかに蘇ります。

空き家とは
時間が止まってしまった家のこと。
タイムカプセルのように
懐かしい物語を内包しながら
しずかにねむっているのです。

異教へのおそれとあこがれと

小さな教会も今は空き家です。

教会といっても
部屋がひとつあるだけの
公民館のような
平屋の平板な建物です。

布教のために
オーストラリアからやってきた牧師が
50年以上も前に建てたもの。

その牧師も
老齢のために帰国し
おもちゃのような教会が残されました。

ひつじかいは一回だけ
友だちに誘われて
その教会に入ったことがあります。
それは、クリスマスの夜のことでした。
みなで何やら歌を唄い
(賛美歌でしょうか?)
ケーキをもらいました。

50年以上も前のケーキですから
とても貴重なものでした。

正直楽しかった。
でもこわかった。
外国人の牧師さんもこわかったけれど
それ以上に
異教に対するおそれのようなものを
感じていたのかもしれません。

友だちは日曜日のたびに
ひつじかいを誘いましたが
ひつじかいはただの一回も
日曜礼拝に出席しませんでした。

空き家3

 

あれから
30年以上がたち
牧師さんと話しをする機会がありました。
おだやかでやさしい方でしたね。
どうしてこのひとを
おそろしいと思ってしまったのか?

ある日
その教会の横を通りかかると
窓のすりガラスの1枚の角が
小さく欠けていることに気がつきました。

ひつじかいは
「中を覗いてみたい」という衝動を
抑えることができませんでした。
人目もはばからず窓に歩み寄ると
三角のすき間に目を当てました。

埃っぽい室内は
予想どおりにがらんとしていました。
記憶の中にある説教台が
正面奥の壁際に置かれていました。

異教に対するおそれとあこがれと
あの夜のクリスマスの光景が
瞼の裏に蘇りました。

教会の牧師さんからは
国に帰られる少し前に
聖書と外国の薄い絵本をいただきました。
今でもその聖書は
ひつじかいの手元にあります。

〈空き家〉とは日常生活の断点?

日常生活が
ある日突然断ち切られてしまったような
そんな空き家があります。

ひつじかいが
今一番気になっている空き家です。

家の前には
深緑色の2シーターの車が
無造作に放置されています。
ナンバープレートは付いたまま。

かなり時間が経過しているのでしょう
側面を篠竹が覆い始めています。
ドアには落書が・・・

家と一体となったガレージに
やはり漫然と放置された中型のバイク。
こちらもプレートは付いたまま。
座席は砂ぼこりで真っ白に汚れています。

そのとなりにでんと構える
肉厚のブラウン管テレビ。
まだいくらも履いていないように見える
登山靴の片方が
通りに向かって正対する位置に
ぽつんと置かれています。

ちょいと用事があって
すぐそこまで出かけたというような風情。
しかし現実には
10年近くは経ってしまっているような
そんな印象を受けます。

 

持ち主は

いったいどこへ

行ってしまったというのでしょうか?


この空き家を見るたびに
「大根の断面」
あるいは「氷河のクレパス」
のようなものを
連想してしまいます。
日常生活の断点
と呼び直してもいいでしょうか。

下世話な話しですが
車やバイクにナンバープレートが
付いていますので
今でも課税されているのではないかと
他人事ながら心配になったりもします。

借金に追われ持ち主は
ひっそりと
雲隠れをしてしまったのでしょうか?

あるいは何らかアクシデントがあり
急逝したのでしょうか?
(お酒の飲みすぎとか・・。)

それとも・・
これは一番考えたくはありませんが
どこかで殺されてしまったとか・・・

空き家は真相を語ってはくれません。
だからひつじかいはいつまでも
持ち主の行方を
あれこれ心配し続けることになります。


考えてみれば家とは不思議なものです。
そこに棲んでいた人がいなくなっても
取り壊されるまでは
存在し続けるわけですから。
しかも
持ち主の気配を色濃く漂わせながら・・。

空き家4


空き家をめぐる物語について
いろいろと考えているうちに
絵本からはさらに離れて
中原中也という詩人の
こんな詩を思い出しました。

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
   空は曇つてはなぐもり、
   風のすこしく荒い日に。

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
   部屋にゐるのは憂鬱で、
   出掛けるあてもみつからぬ。

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
   鉋の音は春風に、
   散つて名残はとめませぬ。

風吹く今日の春の日に、
あゝ、家が建つ家が建つ。

   中原中也「はるかぜ」

家というのはなんだか哀しいな。
どうして人間は
こんなにも家を建てたがるのだろうか?

家を建てたことがない詩人は
建築途中の家を見て思うのです。

30歳で家を建てたとしても
せいぜいが50年。
退職金を当てにして建てるのであれば
その時間はもっともっと短くなります。
物語を紡ぐための栖(すみか)としては
あまりにも短命です。

人間以外の生き物は
巣はつくっても家をつくりません。

こんなに
空き家が気になるひつじかいの家は
父親が建てたもので
築30年以上を経過しています。
このままでいくと
この家もいつかは
空き家になってしまうかもしれません。

通りかかった人々が
ひつじかいの痕跡を見て
勝手な空想をするのかもしれません。
いまのひつじかいのように・・・


ああ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。

それでもあなたは
絵本の中にではなく
この現実に
家を建てるというのですね?

 

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