こんにちは、もりのひつじかいです。
今回は
『アライバル』という書籍の出版以降
絵本の世界観に衝撃を与え続けている
ショーン・タンの最新作
『セミ(CIKADA)(河出書房新社)
を読んでみましょう。
セミとはメタファーか?それとも寓意か?
この書籍はひつじかいの印象では
「大人の絵本」というカテゴリーに
属するものではないかと思います。
念のため
子どもの感想も聞きたくて
ある中学生に
読後の感想をたずねてみましたが
返ってきた答えは
「ネクタイをしているセミを見たのは
初めて!」
というものでした・・。
この絵本と世界感を共有するためには
ある程度
人生の経験を重ねる必要があるのかな
と感じましたね。
これをもう読まれているあなた!
〈セミ〉とは
何かのメタファーなのでしょうか?
それとも
単なる寓意なのでしょうか?
あなたの解釈とほかのだれかの解釈
重なるところがありますか?
それともありませんか?
等々
いろいろとアプローチを変えて
検証いただければ
この物語を
様々な角度から眺望できるかもしれません。
ところで
このショーン・タンの『セミ』
絵本とはあまり縁のない
「河出書房新社」という出版社から
刊行されていますよね。
そんなところにもひつじかいは
大いに興味をそそられますね。
では、そのショーン・タンの『セミ』
作者の世界観に肉薄してみましょう。
作者は「ジュウシチネンゼミ」を知っていた?
実はこの絵本
あるひとからいただいたものなんです。
そのひとが言うには〈セミ〉とは
現代の「流浪の民」〈移民〉のことである
のだそうな。
そう言われてみれば〈セミ〉は-
会社(社会)から冷遇され
無視され
嘲弄され
虐げられ
差別され
それでも17年間無遅刻無欠勤ノーミスで
定年退職の日を迎えるのであります。
しかし
当日は送別会も同僚からの握手さえなく
「つくえ ふいていけ」の一言で
雇い止めとなったのでありました。
〈セミ〉とは
いったい何者なのでしょうか?
また
彼の17年間という勤続年数は
何を示唆しているのでしょうか?
〈セミ〉が〈移民〉のメタファーだ
と言われれば
確かにそんな気もしてきます。
17年間という中途半端な勤続年数も
〈移民〉のおかれた状況を考えると
合点がいきます。
でも、定職にありつける人々というのは
非常に幸運な部類に属する〈移民〉
なのではないのでしょうか?
今日では
〈移民〉として受け入れられることすら
困難をきわめています。
ところで
17年間という勤続年数についてですが
〈ジュウシチネンゼミ〉
というセミがいるんですね
アメリカという国に・・。
ひつじかいは
この17年という数字を分析していて
〈ジュウシチネンゼミ〉
の存在にたどりついたわけですが
ショーン・タンはこのセミの存在を
当然知っていたのではないかと
推測しています。
ちなみにこのセミは
17年に一度しか羽化しませんので
その際には
一遍に300億から1000億匹もの個体が
地上にあふれることになるのだそうです。
また、その鳴き声は
大都会の喧騒よりも
騒音デシベルが高いのだとか・・。
〈ジュウシチネンゼミ〉イコール〈移民〉
と即断するのは早計ですが
あるひとが言うように
かなり近い線なのかもしれません。
しかもこのセミは〈アメリカ〉という国に
大量に発生するのですから!
人間のこと考える「笑いが止まらない」
17年間会社を勤め上げた〈セミ〉は
いよいよ旅立ちのとき(羽化)
が近づいたことを予感し
ビルの屋上へと向かいます。
やがて羽化が始まり
〈セミ〉は幼生から成虫へと変成し
空に舞い上がります。
周りを見ると
同じように羽化を果たした〈セミ〉たちが
無数に宙を舞っています。
そうして
唐突に
次の言葉が発せられます。
セミ みんな 森にかえる。
ときどき ニンゲンのこと かんがえる。
わらいが とまらない。『セミ(CIKADA)』岸本佐知子訳
より抜粋。
と。
森に還った〈セミ〉は
時々ニンゲンのことを考え
そのニンゲンのことを考えると
笑いがとまらないというのです。
これはいったい
何を言っているのでしょうか?
ニンゲンとは・・?
→職場
→社会
→国(アメリカ)
を指しているのでしょうか?
あるいは、もっと対象を広げて
〈国家〉という
人類の「営巣システム」全体を
指しているのでしょうか?
そうであるとするならば
〈セミ〉も単なる〈移民〉ではなく
〈難民〉や〈不法入国者〉
更には虐げられた人々の全体
〈国家〉が産み落としたマイノリティを
指し示しているのかもしれません。
そんなニンゲンのことを考えると
〈セミ〉は笑いが止まらない
というのです。
おそらく
冷笑しているわけではないでしょう。
こんなシステムが哀しくて
〈セミ〉はわらっているのです。
〈セミ〉はおそらく
宇宙の法則を知っているのですね。
つまり、こうです。
与えたものが与えられる
と。
マイノリティをマイノリティとしてしか
定義できないニンゲン自身が
マイノリティそのものだと
〈セミ〉は伝えているのです。
なかなか重層的な絵本だと思います。
世界では
いろいろな読み方がされているようですが
それも作者ならではの
特異なセンスの賜物でしょうね。
ひょっとすれば
「ネクタイをしているセミを見たのは
初めて!」
という読み方だって
ひとつの世界観なのかもしれません。
ひつじかいはこの絵本を「大人の絵本」
と位置づけてしまいましたが
もちろん子どもが読んだって
いいわけです。
ここを否定してしまうと
ショーン・タンのねらいを
外すことになってしまったかも
しれません。
さあ
ここまで長々と
ひつじかいの解釈を述べてきました。
そういうあなたは
この絵本を
どんなふうに読まれたでしょうか?
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