「魚の楽しみが分かる」と言った荘子の言葉が今になって分かる!

魚が楽しそうに泳いでる メッセージ
魚が楽しそうだね!

こんにちは、もりのひつじかいです。

その人のことを真剣に考えているのに
こちらの思いが全然伝わっていないと
感じたとき

どうして私の気持ちが分からないの!

なんて
ついつい叫んでしまったことって
ありませんか?

ひつじかいはこれまでの人生で一度だけ
このセリフを口にしたことがあります。

でも言ってしまったあとから
ネガティブな気持ちがわいてきたんです。

それはどうして・・・?

こんな経験、あなたにもありませんか?

「私の気持ち」は
しっかり相手に伝わっていると
思っていますか?

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言った方も聞かされた方も困ってしまって・・・

「どうして俺の気持ちが分らないのかな」

この言葉を発することとなった
具体的なエピソードについては
はるか忘却の彼方に没し
今では詳しく思い出すことができません。

突然父親から
このような理不尽な言葉を投げかけられ
困惑した
息子の顔を覚えているだけです。

10歳になろうとしていた
息子の顔を・・・。

困惑してしまった。(ネコ)

こんなセリフを口にしたほうも
こんなセリフを聞かされたほうも
このあとどうしたらいいのか見当がつかず
ふたりでぼんやり突っ立っていた
あの不可解な情景が
今でもふとした拍子によみがえります。

その後ひつじかいはこのセリフを
誰に対しても、面と向かって
口にすることはありません。
(たぶん、これからもないでしょう。)

息子について言えば
彼の成長とともに
彼の本当の気持ちが
ますます分からなくなっていきました。

しかし
口に出さなくなったとはいうものの
心の中では時折、さまざまな場面で
つぶやき続けてはいましたよ。

「どうして俺の気持ちが分らないのかな」
てね。

あなたに魚の気持ちが分かるの?

その昔中国に
荘子(そうし)というひとと
恵子(けいし)というひとがいました。

二人はある日行楽の途中で
橋の下に悠々と泳ぎ回る魚を目にします。

そこで思わず荘子が

「ほら、見てごらん!
 魚が楽しんでいるよ」

て声を弾ませて言うんですね。
すると恵子が

「おや、あなたは魚でもないのに
 どうして魚が楽しんでいるって
 わかるの?」

と返すのです。

これは
荘子の(『荘子』外篇)という
書物に出てくる「知魚楽」という
あまりにも有名なお話しですね。

魚の楽しみが分かるんだ

この2人の賢人の会話はさらに続き
荘子は恵子の返答に

「君は僕ではないのだから
 〈魚が楽しんでいることを
 僕が分からない〉なんてこと
 どうして分かるの?」

と、質問に質問で返したんです。
すると恵子は、待っていましたとばかりに

「(たしかに)私はあなたではないから
 あなたのことは分からない。
 (そうして)私は魚ではないから
 魚のことは分からない」

と理路整然と切り返すんです。
すると荘子はしたり顔で

「君が僕に『魚が楽しんでいるって
 どうして分かるの』ってきいたとき
 君は〈魚にも楽しみというものがある〉
 ということを知っていたことになる。
 (だからこういう質問ができたわけだ。)

 そうなんだよ
 僕には魚が楽しんでいるってことが
 分かるのさ!
(君が知っていたとおりにね!)

最後の荘子の言葉にはどこか哲学的な
分かったようで分からないような
「もやもや」したものを感じますよね。

いくら恵子が
先見的に「魚の楽しみ」を知っていた
からといって(しかも荘子の推論!)
それが荘子の
「魚の楽しみが分かる」ことの論拠には
ならないわけですから・・。

どちらかというと恵子のほうが
論理的ではないかと思えてくるのです。

「どうしておれの気持ちが分からないの」
なんてセリフを口にしてしまってからの
ひつじかいは
知らず識らずのうちに
恵子の肩を持っていたんだと思います。

しょせん人間には
息子の気持ちなんて分からないよ
ましてや魚の気持ちなんて・・。

「もやもや」にこそ意味があった!

年をとったということでしょうか?

最近になって
荘子の言葉にこそ耳を傾けるべき
含蓄があるように思えてきたのです。

論理やセオリーや社会通念などを超えて
ただ「分かる」という瞬間があることが
「分かる」ようになってきたのです。

それはたぶん
帰納法とか演繹法などと呼ばれる
「推論」などから導かれるものではなく
先の「知魚楽」でいえば
荘子の最後の言葉にひつじかいが感じた
あの「もやもや」にこそ
求められるものではないかと思うのです。

ではその「もやもや」とは何か
ということですが
別の言葉に置き換えれば
それは「飛躍」ということになるのだと
思います。

論理が
最後の最後に「飛躍」するんですね。
論理の届かないポジティブな領域へ
ワンネス(一なるもの)に向かって
「飛躍」するのだと思います。

荘子が「知魚楽」で言いたかったことは
本来は
別のところにあるのかもしれませんが
こんなふうに解釈することで
初めてこの逸話が「分かった」ような
そんな感じがしたのでした。

暗黙知の次元

マイケル・ポランニーというひとが
『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫)
という本を書いています。

この本の中で著者は
動物が持っている感覚には
五感を超えるものとして
「暗黙知」とでも名付けられるべき
感覚があるのではないかと書いています。

誰かから教えられたわけでもなく
自ら学んだわけでもないのに
生来そのことを暗黙のうちに
「知っている」「分かっている」
そういう感覚を総称して
「暗黙知」と呼んでいるのです。

正確な渡り鳥たちの渡り

たとえば渡り鳥たちの方向感覚。

GSPを持たない彼らが
何千キロもの空を越えて
民家の軒下に帰巣しますよね。
あれもそうした感覚の
ひとつではないかというのです。

新型コロナウイルスの発現により
現在最も注目を集める言葉
ソーシャルディスタンシングについても
人間には生来
適正な間合いを「目測する能力」が
備わっているというのです。

そしてさらに
これらのいわば「非言語的」感覚が
発現する領域があるのではないかと
類推するのです。

それが「暗黙知の次元」というわけです。

つまり「知魚楽」でひつじかいが感じた
「もやもや」とは
非言語化の壁
暗黙知の次元を超えるときにできる
「きり」のようなものだったのかも
しれません。

「共感」が始まるところ

ここまでずいぶん遠回りをしてきましたが
ひつじかいが言いたいことは、こうです。

「どうして私の気持ちが分らないの!」
は、やはりNGだということです。

このようなポジションにとどまる限り
論理の届かないポジティブな領域へ
つまりは非言語による暗黙知の次元
ワンネス(一なるもの)に向かって
「飛躍」すること、飛び越えることは
できないからです。

ではなんて言えばいいのでしょうか?

哲学や心理学や論理学や倫理学
その他様々な言語による知覚を超えて

ただ一言
「あなたの気持ちが分かるよ」
と言ってみることです。

相手に伝える「君の気持ちは分かる」と。

口に出して言うのが恥ずかしいときは
心の中で。

おそらくここから
「共感」が始まるのではないか
「ワンネスへの歩み」が
始まるのではないかと
ひつじかいは思うのです。

このとき
なにか「もやもや」するものを感じても
怖れずに進んでいくことが肝要だと
そう思うのです。

そうすればいつか

「ほら、見てごらん!
 魚が楽しんでいるよ」

と自然に言える日が
くるのではないでしょうか。

どうして私の気持ちが分からないの!
なんて安気にいってしまう自分を
悠々と超えられる日が
くるのではないでしょうか。

 

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