こんにちは、もりのひつじかいです。
今日は
ひとの〈記憶〉について
あれこれ
「うんちく」をかたむけてみたいと
思います。
ひつじかいの場合ですと
絵本のストーリーを書くとき
あるいは
童話の構想を組み立てているときに
知らずしらずのうちに
さまざまな〈記憶〉に頼っています。
そういうあなたもきっと
あなたの大切な〈記憶〉と
上手におつきあい
なさっているのではないでしょうか。
普段何気なく使っているこの〈記憶〉を
意識的に使いこなせるようになれば
絵本や童話を書く際にも
有力なツールになるのではないかな
と思います。
よろしかったら
ごいっしょに考えてみましょう。
たとえば、こんな〈記憶〉を思い出したとして・・
ところで
あなたには
こんな経験がおありではないでしょうか?
ある日ドライブをしていたら
何げなく点けていたカーラジオから
ユーミンの
『やさしさに包まれたなら』が
聞こえてきたとします。
それを聴くともなしに聴いていると
その曲を主題歌に使った映画のことを
思い出しました。
映画のことを思い出したとたんに
それをあのひとと観に行ったときのことを
思い出したのです。
映画を観た後
海辺を歩いたことや
波打ちぎわに落ちていたサンダルのこと
そのサンダルの色をはじめ
そのサンダルについてあのひとが言った
短いひとことまで
思い出されてきました。
それから近くのカフェで軽食を摂り
楽しいおしゃべりが続いていたのに
ささいなことから言い争いになり
それが口喧嘩に発展し
憤慨したあなたは
思わず席を立ってしまったことなどを
思い出したのです。
そのとき
店内に流れていたのは
竹内マリアの
『シングル・アゲイン』だった
なんてことまで
思い出されてきたのでした。
で、そのあとあなたは
どうしたんでしたっけ?
あ
いいえ
ここで
無理にお答えいただかなくとも
結構です・・・
ステート・スペシフィック・メモリーとは
『やさしさに包まれたなら』を
聴いていたら
あなたが長いこと
忘れていたはずの思い出を
ふと思い出した。
ああ
そういえばあのとき・・
そう思った途端に
思い出は次から次へと
あふれ出し・・
あれからもう
30年は経っているというのに
まるで昨日のことにように
鮮やかに蘇ってくるのでした。
・・・・・・
ある映画の主題歌を聴いた瞬間に
あなたの想い(マインド)は
それを聞いていた当時にリバースされ
その主題歌に付随する〈記憶〉の数々を
まるで昨日のことのように
色鮮やかに思い出した!
と、こういうわけです。
すっかり忘れていた
あるいは
忘れていると思いこんでいた〈記憶〉が
なぜ
かくも鮮やかに
まるで昨日のことにように詳細に
リバースされたのでしょうか?
いったいその〈記憶〉は
どこにしまわれていたと
いうのでしょうか?
ちょっと脳科学を齧ったひとならば
「それは海馬(かいば)ではないか!」
というかもしれません。
ひつじかいも
ほんの10年くらい前までは
そんなふうに理解していました。
ところが
チャールズ・タート(1937~/アメリカ)
という心理学者が唱えた
〈ステート・スペシフィック・メモリー〉
(「状態特有の記憶」
あるいは「局在記憶」とも呼ばれる)
という概念を知ってからは
こちらの説のほうが有力ではないかなと
思うようになりました。
それは、どういう概念かといいますと-
ひとの〈記憶〉は
それを体験していた
「意識領域の中に」ストックされる。
というものです。
先ほどの
海辺のカフェの例で説明をしますと-
あのひとと
ほんのささいなことから
けんか別れしてしまった
「あの日」の思い出(記憶)は
ユーミンの
『やさしさに包まれたなら』を
聴いていた
その意識領域(意識状態)の中に
しまわれていた
ということになります。
だから
偶然にもカーラジオから流れてきた
『やさしさに~』を聴いているうちに
その〈引き出し〉に収納されていた
ありとあらゆる〈記憶〉に
アクセスすることが可能になった
というわけなのです。
ステート・スペシフィック・メモリーはこう使う!
もって生まれた性質なんでしょうか
ひつじかいのマインド(意識)は
ころころころころ展開するんですね。
たとえば
キッチンで玉ねぎを切っているときに
ふと
(そういえば明日
絵本づくりの打ち合わせがあったな。
何時だっけ?)
と思ってしまうんですね。
ひとたびそう思うと
すぐに確認しなければいられなくなって
玉ねぎを切り終わってから
落ち着いて確認すればいいものを
切っている途中で包丁を置き
手帳が置いてある2階へ
とんとん上っていくんです。
ところが
階段を上っている途中で
また別のマインド(意識)が
割り込んできますので
ほんの2~3段上ったところで
こんな状態になってしまうんです。
(ところで、おれ、何しに行こうと
してるんだっけ?)
笑わないでくださいよ。
これでも
ひつじかいは真剣なんですから・・・。
階段の途中で立ち止まって
あれこれ思い出そうとするんですね。
でもダメなんです
何も思い出せません。
空白なんです。
そこで仕方がないので
すごすごとキッチンまで戻り
玉ねぎの続きを再開するんです。
すると
(あ、そうだった
絵本の打ち合わせに出版社へ行く時間を
調べに行ったんだっけ!)
となるわけです。
めでたし、めでたし。
この場合は1回でお目当ての情報に
アクセスできたからいいようなものの
ひどいときには、これを
2回やってしまったことがありましたね。
そのときは
認知機能が低下したのではないかと
さすがにショックでしたが・・。
おっと
ここで肝心なことは
ひつじかいが
階段の途中で見失ってしまった
大切な情報
(出版社へ行く時間を確認する)は
完全に失われたわけではなく
それを体験していた意識領域
つまり
玉ねぎを切っていた意識エリアに
メモリーされていたので
キッチンまで戻って
調理を再開した途端に
(あ、そうだった!)
となったと、こういう流れなんですね。
この場合は
キッチンがすぐ近くにありましたので
そこまで戻りましたが
キッチンが遠くにあるとしたら
想像のなかでキッチンに戻り
玉ねぎを切っていたときの状況を
リアルに思い浮かべるのです。
包丁や玉ねぎの感触
鍋から立ち上る湯気の感覚
キッチンの風合いや温度湿度などを
イメージします。
すると意識は自動的に
先ほどの
(絵本作りのために~確認しなくちゃ!)
と考えていた意識エリアに
舞い戻るという仕組みです。
これが
ステート・スペシフィック・メモリー
と呼ばれる意識の働きの概要です。
おわかりいただけたでしょうか?
五感は〈記憶〉を引き出すための触媒
フランスの作家に
マルセル・プルースト(1871~1922)
というひとがいましたが
この作家が書いた長編小説
『失われた時を求めて』(全5巻)は
「紅茶に浸したマドレーヌ」の臭い
を思い出すことで
その臭いを嗅いでいた時の〈記憶〉に
アクセスし
こんなに長い物語を書き上げたと
いわれています。
つまりこの場合は〈臭い〉が
ステート・スペシフィック・メモリーに
アクセスするための触媒と
なっていたわけです。
海辺のカフェの例が音、つまり聴覚。
玉ねぎの場合は触覚。
そしてこの長編小説では
嗅覚を使っていますね。
ここでは触れませんが
視覚や味覚を触媒とする例というのも
ありますね。
ひとは五感で物事を体験しますので
ステート・スペシフィック・メモリー
というのは
そうした五感による知覚をともなった
特定の意識領域に収納される
ということになるんですね。
「紅茶に浸したマドレーヌ」の臭い
だけで
長編小説を書き上げるのは
なかなか至難の技だとしましても
このテクニックを「夢」に応用することは
可能ではないかと思います。
実際ひつじかいの妻は
このテクニックを使って
夢の詳細を語ることができます。
長いときには30分くらい
夢のストーリー展開を語ってくれます。
ここまで夢を自在に語り尽くせるならば
その〈記憶〉を
さまざまな物語に
応用できそうなものですが
残念ながら妻には
そんな気はさらさらないようです。
ステート・スペシフィック・メモリー
あなたもこのスキルを研いて
素敵な絵本や童話を
紡いでみてください。
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